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橘氏の起こり |
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古代に勢力をもった氏。 県犬養三千代が708年11月, 歴代の天皇に仕えた功により元明天皇より橘の氏姓を賜った(橘三千代)。 橘三千代は、 敏達天皇の曾孫美努王に嫁ぎ、葛城王(橘諸兄)と牟漏女王を産み、 その後藤原不比等と結婚して、光明皇后を産む。 奈良朝において最も注目すべき女性。 ついで736年11月, 美努王との間の子の損城王と佐為王は臣籍に下って母の氏姓をつぎたい旨を上表して認められ, 橘諸兄および同佐為(さい)と名のるようになった。 これが橘氏のおこりである。 750年1月,諸兄は朝臣の姓(かばね)を賜っている。 彼は737年の藤原4縁の急死によって政権を掌握し左大臣にまで昇ったが, 藤原仲麻呂と対立し, 密告によって756年2月に辞任し,翌年1月没した。 その子奈良麻呂は早くから藤原仲麻呂打倒計画を立て, 同志をつのっていたが,757年に発覚し誅されたらしい。 この事件によって橘氏の勢力は一時後退したが, 平安時代に入り,奈良麻呂の子の世代になってしだいに復活のきざしをみせた。 しかし807年の伊予親王事件にまきこまれ, 奈良麻呂の子の安麻呂や,同じく子の入居(いるいえ)の子の永嗣(継)が縁坐した。 その後, 奈良麻呂の子清友の女嘉智子が嵯峨天皇の後宮に入りやがて 皇后となって檀林皇后と称し, その弟の氏公も昇進し右大臣に至った。 その後,橘逸勢(はやなり)(入居の子)は三筆の一人に数えられる書家であったが, 842年承和の変にまきこまれて流罪に処された。 また参議となった橘広相(ひろみ)(奈良麻呂の子嶋田麻呂の3世の孫)は, その女の義子を宇多天皇の後宮に入れ, 天皇の信頼を得ていたが,887‐888年の阿衡(あこう)事件で失脚した。 以後,橘氏はあまりふるわなかった。 |
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