金札宮













金札宮
橘 良基
(たちばな よしもと)
825年生〜887年没

853年、左京少進、官位は、
従六位下(京都左京の
司法警察職員)にんぜられ、
民部少丞、官位は、
従六位上(民政職員)に移った。

857年〜859年の初め
正躬王(大宰大弐)より
少監就任(官位は同じ)
大宰府職員に請われたが
応じなかった為
文徳天皇の怒りに触れ、
官を解任された。


858年 清和天皇が即位し、
859年木工少允
(造営、神社用具等制作の職員)
官位は、
従七位上で官に復活し、
次いて式部大丞(次官)
官位は、正六位下と五段階越えに昇進。
865年正月、
従五位下に叙せられ、
伊予権介(父、安吉雄の経験した職)となり、
治績があがった為。
870年正月、従五位上常陸介、
875年頃、越前守(国司)
へと累進。
879年頃、丹波守(国司)にうつる。
政績によって
882年正月、従四位下へと一階を越えて昇叙。
884年5月、信濃守(国司)。
律令制を維持しようとする治政に
評価が高く、
良吏の名を欲しいままにした。
しかし直情径行的な
硬骨漢のためか、
885年4月、詔使に
従わないとの疑いで、
刑部省(裁判所と検察庁)で
訊問されたが
推断が終わらない
887年6月、卒去した。
清廉・清貧を治政の
信条としたため、
財産は無く、
中納言 在原行平の支援で葬儀をする事が
出来た。


金札宮








金札宮

「百術不如一清」
(ひゃくじゅついっせいにしかず)
あらゆる権謀術策は1つの清廉さに及ばない


言葉を残している。



業 績

石清水八幡宮
859年
男山の丘陵上に鎮座する石清水八幡宮は、朝廷より木工寮権允
橘良基が宣旨を承けて
宇佐宮に準じ、
六宇の寶殿(正殿三宇・禮殿三宇)
を建造した。
同二年、
誉田別命・比口羊大神・神功皇后を
奉安した。




京都府八幡市八幡高坊30
金札宮
石清水八幡宮
高津宮(高津神社)
866年
清和天皇は仁徳天皇の遺徳を偲んで橘良基詔して社殿を造営させたのが
高津神社。
祭神:本座:仁徳天皇

左座:仲哀天皇/応神天皇/神功皇后

右座:葦姫皇后/履中天皇

当初は大阪城あたりありましたが
大阪築城により
現在
大阪市中央区高津鎮座に
移された。
「木工少允(従七位上)の頃」


「伊予権介(従五位下)の頃」


高津八幡宮
881年
高津八幡宮の地は、
奈良時代に法道上人が開いた
密教道場であつた。
陽成天皇の元慶5年(881年)
山城の国男山八幡宮より
金色の鳩が飛んで来て、
この地に止まり奇瑞を表した。
 これにより勅命をもって、
国司の橘良基に
石清水八幡宮の別宮
「如意別宮」として、
創建されたと伝えられる。
 祭 神
  仁徳天皇:仲哀天皇
  応仁天皇:神功皇后
  玉依比売命


綾部市高津町
金札宮 美和神社(三輪神社)
886年
「景行天皇の御代、
日本武尊により、
甲斐国造(くにのみやつこ)の
塩海足尼(しおみたるに)の
手によって、
大和の御室山の
大三輪明神を勧請し創建された」
と伝えている。
平安時代(
886年に
国司の橘良基が奏請して、
甲斐国二之宮としたと云う。


山梨県笛吹市御坂町二之宮
国司(丹波守)の頃」 国司(信濃守)の頃」


橘氏の起こり
 
古代に勢力をもった氏。
県犬養三千代が708年11月,
歴代の天皇に仕えた功により元明天皇より橘の氏姓を賜った(橘三千代)。
橘三千代は、
敏達天皇の曾孫美努王に嫁ぎ、葛城王(橘諸兄)と牟漏女王を産み、
その後藤原不比等と結婚して、光明皇后を産む。
奈良朝において最も注目すべき女性

ついで736年11月,
美努王との間の子の損城王と佐為王は臣籍に下って母の氏姓をつぎたい旨を上表して認められ,
橘諸兄および同佐為(さい)と名のるようになった。
これが橘氏のおこりである。
750年1月,諸兄は朝臣の姓(かばね)を賜っている。
彼は737年の藤原4縁の急死によって政権を掌握し左大臣にまで昇ったが,
藤原仲麻呂と対立し,
密告によって756年2月に辞任し,翌年1月没した。
その子奈良麻呂は早くから藤原仲麻呂打倒計画を立て,
同志をつのっていたが,757年に発覚し誅されたらしい。
この事件によって橘氏の勢力は一時後退したが,
平安時代に入り,奈良麻呂の子の世代になってしだいに復活のきざしをみせた。
しかし807年の伊予親王事件にまきこまれ,
奈良麻呂の子の安麻呂や,同じく子の入居(いるいえ)の子の永嗣(継)が縁坐した。
その後,
奈良麻呂の子清友の女嘉智子が嵯峨天皇の後宮に入りやがて
皇后となって檀林皇后と称し,
その弟の氏公も昇進し右大臣に至った。
その後,橘逸勢(はやなり)(入居の子)は三筆の一人に数えられる書家であったが,
842年承和の変にまきこまれて流罪に処された。
また参議となった橘広相(ひろみ)(奈良麻呂の子嶋田麻呂の3世の孫)は,
その女の義子を宇多天皇の後宮に入れ,
天皇の信頼を得ていたが,887‐888年の阿衡(あこう)事件で失脚した。
以後,橘氏はあまりふるわなかった。
金札宮 金札宮 金札宮
伏見の神社・仏閣 金札宮