京都伏見
大 光 寺
大光寺
藤澤山 大光寺
(ふじさわざん だいこうじ)

文応元年〔1260年〕寛海上人が、建立した浄土宗の寺。
(建立当時は、江戸町にあったと伝えられている)


『拾遺都名所図会』には本尊は阿弥陀仏(立像3尺)で、春日の作。(桃山時代の作)
阿弥陀仏(坐像2尺3寸)御首は、善導大師の作、体は和作なり。

法会を十夜中行った事から、十夜仏と号す。
とあります。

また
紹介文には”大光明寺”とありますが、寺院の絵図には”大光寺”とある。
住職:河村 将直氏に尋ねてみると
現住所で、伏見区桃山町泰長老(当時 江戸町2丁目)に”大光明寺”(禅宗)のお寺があり
その寺院そのものは臨済宗 相国寺の中の一塔 中寺院として移された

社伝に
寛永元年(1624年)伏見奉行 青山伯耆守のお屋敷跡を拝領して現在の地に移転したと伝えられている。
当時代の寺院は、改宗が多々見られるとの事。
また
伏見の地は、戦乱等により資料が少ないため正確の事は不明との事。

私見ではあるが、この寺院名の相違は、著者の意図的な思で、
何かを訴えたかったのかも知れない。


絵図と文面を読み解くかぎり現”大光寺”である事は間違いない。
大光寺
『拾遺都名所図会』 伏見 大光寺 絵図


山門を入り
右側(東側)に薬師堂
左側(西側)日限地蔵尊があります



日限地蔵尊堂 ・ 庚申堂 薬師堂
大光寺 大光寺 大光寺
大光寺 本尊は
奈良三笠の薬師寺より 移したと伝わる薬師尊像、
(手接の薬師尊像)

お堂は
皇族であった華頂宮の旧御殿を移した建物で。
桃山時代風の豪華な建物を感じる事が出来ます。

『拾遺都名所図会』には、この尊像は、春日(桃山時代の作)なり
毎月夜群参ありて市店多しとあります。

大光寺 大光寺
また
四面仏
大光寺
大光寺
西に向かい
阿弥陀如来
大光寺
南に向かい
釈迦如来
大光寺
東に向かい
薬師如来
大光寺
北に向かい
弥勒菩薩

(鎌倉後期の作)があります。
高さ60cmの方形の花崗岩に、
釈迦如来
薬師如来
阿弥陀如来
弥勒菩薩
の船形後背を彫った如来形四仏です。

(十三重石塔の塔身)

『拾遺都名所図会』には、境内の西側
地蔵堂の前に置かれ
線香の炉に転用されていた様です。


横田 蔵之允のお墓
(よこたくらのすけ)

伏見奉行所の与力で、文武に勝れた与力。
テレビドラマでも有名な
「新撰組」の
後藤大介等がしばしば禁猟区の巨椋池で再三にわたり猟を行い
横田 蔵之允 与力に注意を受け逆恨みし
慶応3年11月9日の夜 横田宅を襲い斬殺し、天誅の斬奸状を残し
横田 蔵之允首を京橋口に晒される。
この事を聞くと、
新撰組のイメージが変わり ドラマで述べられている事だけでは無く
ひどい組員がいた事を銘記させざるおえない。

後藤大介等のその後は、
押して知るべし、
因果応報の網より逃れる事は出来なかった様です。


このページを作成にあたり、大光寺 住職に尽力を頂き、
また
種々のお話をさせて頂き開眼させられる事が多々ありました。
心より感謝。


追記:私が法然聖人さまの言葉で感銘を受けた言葉を紹介します。

炎は空へ上がっていく、水は低い方へ流れていく
全てあるがままなんだ。


(あたりまえの事なのですが、道理を無視し現実を直視せず我執してしまうものが人間。
また
道理の通り生きて行けばおのずと天命にたどり着くと感じる言葉です)

大光寺

住職: 河村 将直 氏

住所:京都市伏見区伯耆町1の1

電話:075−601-4282


地図はこちら

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