京都伏見
歴史 紹介
古代・中世
        《日本書紀》の雄略17年に,土師連に朝夕の御膳の土器を奉るために民部を貢進させた記事がある。
   桓武天皇陵が807年(大同2)伏見山(現在の伏見城あたり)この地に移されたとあります。
   (拾芥抄・江家次第)

       土地は藤原氏の荘園であったらしく,家綱は白河院に献上,白河院は甥源有仁に譲り,有仁はこの山荘に居住し,
   伏見寺(即成院)を営んだとされています。
   その後,有仁は養女の鳥羽院皇女頌子(しようし)内親王に伝領,頌子(五嶋斎院)は平範家に本家職を留保して,
   領家または預所職のみを与えた。
   平範家は60年木幡浄妙寺領(浄妙寺跡)150町を
伏見荘の私領と号して,荘民を押し入らせ乱妨したとして
   訴えられ、この事件の翌年範家は伏見里に建立,居住していた護法寺を北岩倉に移しています。
   そののち伏見荘の知行権は範家の子親範に伝領されたようです(〈平親範置文〉)。
   本家職は頌子内親王から後白河院に寄進され,院は長講堂領としました。
   
伏見の歴史
    
   伏見荘
は〈伏見九郷〉と称される9村で構成されています。

                 久米村    (鷹匠町,金札宮付近)   地図はこちら
                 舟戸(津)村  (淀川に面した柿ノ木浜付近)  地図はこちら
                 森村      (桃陵町付近) 地図はこしら
                 石井村    (御香宮門前付近) 地図はこちら
                 即成院村   (桃山町泰長老付近) 地図はこちら
                 法安寺村   (深草大亀谷五郎太町付近) 地図はこちら
                 北内村    (深草大亀谷付近)  地図はこちら
                 山村      (旧伏見城域内の広庭)  地図はこちら
                 北尾村    (深草大亀谷敦賀町付近)     地図はこちら

 
 伏見荘9村の鎮守にあたる御香宮(ごこうぐう)は,春秋2回の例祭に猿楽が催されたことで知られています。
  地下侍のなかでも有力であったのは小川氏と三木氏であり,小川禅啓は応永20年代,伏見荘政所に
  任ぜられており,三木氏は御香宮神主職をもっていました。そのほか,内本,下野,岡,芝などの諸侍がおり,
  彼ら地下侍を中心に,伏見九郷の住民は団結・武装化し,惣結合によって隣郷との境相論,用水・草苅相論,
  盗賊との対決など,自治自衛を行っていました。即成院に入った盗賊の椿議のため,
  御香宮で住民が起請を行うなど,自検断(警察・裁判の自治権)的色彩が濃い。
  伏見荘には,中世,大光明寺およびその塔頭(たつちゆう),即成院などの寺庵が多数存在したが,
  秀吉の伏見築城の過程で移転したものが多いです。
  大光明寺跡地には,光明,崇光両天皇陵があります。また伏見城近辺の名勝,指月(しげつ)の森は観月橋
  ( 北辺一帯をいい)東南西が水流、東南に巨椋(おぐら)入江,東に伏見沢があり,詩文に読まれたが,
  現在は巨椋池が干拓され,変化しています。
  なお伏見には歌枕が多く,
  〈伏見里〉〈伏見田居〉〈伏見沢〉〈伏見野辺〉などが,巨椋池,木幡山などとともに詠みこまれています。 
                                                             (脇田 晴子記)
伏見の歴史
近世
  1592年(文禄1),豊臣秀吉は巨椋池を臨む景勝の地に隠居所の造営をはじめたが,翌年暮れには隠居所を
  本格的な城郭とし,城下町も造成することを決め,94年2月から指月の地を中心に大土木工事を起こしました。
  天下人秀吉が指月の  城に入ったのに伴い,有力諸大名も伏見に集住し,大坂と伏見を船で結ぶための
  宇治川の流路付替えや,京都,奈良,大坂,大津などを経て諸国と伏見を結ぶ諸街道も新たに整備され,
  伏見は中央政治都市にふさわしい機能と景観をもつにいたっています。
  1596年の大地震で城と城下町はいったん破壊されたが,まもなく指月から伏見山へ場所をかえて築城され,
  伏見城と城下町はさらに規模を広げて再生しました。
  城下町は伏見山の西麓を中心に武家地,社寺地,町地が策定され七瀬川を総外堀とし,京町通,
  両替町通などの市街中心部をつつむように外堀(濠川)が設けられて舟運にも利用されました。
  秀吉の没後,1600年(慶長5)の関ヶ原の戦に際し城と城下が兵火に焼かれましたが,覇権を握った徳川家康も
  全国統治の上から  政治都市としての伏見の位置を重視して,伏見の再生をはかりました。
  伏見両替町に全国で初めての銀座を設けたり,京都と伏見の間に高瀬川を開かせて舟運を通じさせたり,
  書籍(伏見版)版行を行った円光寺を誘致したり,伏見城で歴代将軍の拝任式を行うなど,徳川氏は伏見の発展を
  促しました
  しかし,江戸および駿府に政治の中心が移るに従い伏見の地位は低下し,伏見町民の大坂移住が奨励され,
  伏見城の廃棄が1619年(元和5)には決定されました。
  23年の3代将軍家光の将軍拝任式後に伏見城は壊されて,伏見の城下町時代は終わりました。
  廃城後荒れはて恐れられた
伏見城の跡地の城山に数万本の桃樹が植えられ,全山が花の季節には桃色に染まり,
  庶民が花見に集うようになったのは17世紀後半
です。こうして伏見山が桃山の名で親しまれるようになったころ,
  伏見は城下町から京都と大坂を結ぶ中継商業都市へと転生し、また東海道が大津追分から山科を経て伏見を通り,
  淀から大坂へと整備されたことにより,大名行列や商人,旅行者の行き交う宿場町としても発展しました。
  行政的には伏見奉行の支配下にあり,町数263,
  家数6256は江戸中期の数字でありますが,人口をみると江戸中期に3万人前後で後期の天保年間(1830‐44)には
  4万人余に増加しています。
  特産品は,
伏見人形,寒天,花火,扇骨・団扇等の竹製品,伏見鋸,酒など多種にわたりますが,生業としては
  過書船,  高瀬舟,伏見船,伏見車などの運輸業や問屋業,旅宿業なども少なくなかったようです。
  幕末には鳥羽・伏見の戦の戦場となり
  ました。
1929年市制施行したが,31年京都市に合併し,伏見区となりました。
                                                             (鎌田 道隆記)


伏見の歴史
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