|
|
京都伏見 |
金 札 宮 |
金札宮 (きんさつぐう) 社伝によれば天平勝宝二年(750年)の創建。 由来は 750年大きな流れ星が降る異変があり、第46代 孝謙天皇(女帝で在位749〜758年)が 深く憂慮された時に 伏見久米の里に白菊を植え賞でている翁がおり 「この地に日照りが続き、稲が枯れるような時、私が愛でた白菊の露の一雫より清水が湧き出す」 吾は、太玉命で天下の豊秋を喜ぶ。 「人々が一度この白菊の露の一雫より、福運が着き、家運は長く隆盛で、 子孫繁栄し、火災のわざわいから除かれるであろう」 との事を お聞きになった天皇は、事のほか喜ばれ、 天皇みずから筆をとられ 社殿造営の指示をだされた。 (孝謙天皇は現在の地名で奈良にお住まいされていました) 社殿建築中に、 「永く伏見に住み国土を守らん」 と書かれた金の札が降り人々が集まって来るうちに、 空から声がし 「我こそは天照大神より遣わされた天太玉命なり、 我を拝まんとすれば、 なお 瑞垣(みずがき)を作るべし」 と聞こえたとの話です。 また一説には、 750年創建で、第56代 清和天皇(在位858〜876年)の頃 天皇の命により 橘 良基(たちばなよしもと)が阿波国(現の徳島県)より 勧請(神仏の分身を他の地に移して祀る事)した とも伝えられています。 伏見で最も古い神社の1ッであると伝えられている。 謡曲 「金札」と金札宮 794年、山城国愛宕郡(現京都市)に遷都された第50代 桓武天皇は、伏見の里に神社建立のため、 勅使を遺わされました。 この時、金札が降り下がり、 取り上げてみると「伊勢大神宮の流れを絶やさぬため、天津太玉神を祀るように」との ご神託が、金文字で書かれていました。 謡曲「金札」は、この金札の故事を語り、 天津太玉神が金札と弓矢で君の代と国土を守護し、悪魔を降伏させ、もう弓矢の 必要はなくなったと謡つています。 |
金札宮の御神体 (三柱の祭神) |
||
倉稲魂神 (うがのみたまのみこと) 左座 |
天太玉命 (あめのふとだまのみこと) 本座 |
天照大御神 (あまてらすおおみのかみ) 右座 |
食物を主宰する神。 天太玉命の命により五穀の種を、 伏見の里に蒔き、 耕業を盛んにさせた事から 金札宮の本殿に祀られる。 |
司祭を司る神で おはらいの神。 |
我が国家皇室の御祖神。 (山川草木の霊を生み給う神) |
五穀豊育・火難除去・家運隆昌の祖神でありこの神は、神聖な神なので、 人の心に宿る邪悪な情を除き、正直な道に帰らせ 諸事道理に順って緑熟を持たせる。 と あります。 また 金札宮 宮司さまに尋ねると、 本堂には、 恵比須さまも お祀りしているとの事です。 ご存知の通り”恵比須さま”は、 七福神の一人として、生業を守り、福をもたらす神。 このお宮は、霊験あらたかで、ご利益が・・・・・ 金札宮 神事はこちら |
||||
金札宮の門前に立つと香しい匂いを 感じる 心地よい気持ちでおまいりしょう。 |
||||
1299年 第93代 後伏見天皇は、 荘園を寄進され殷盛(いんせい)。 しかし 応仁の乱(1467〜77年)で焼失。 第104代 後柏原天皇 (在位1501〜1526年) によって再建。 |
豊臣秀吉の伏見城築城(1592年) にさいして 伏見山(伏見城の鬼門)艮(うしとら) に移され 関が原の戦い(1600年)で落城後 現在地の北250メートルの所に移される。 |
|||
クロガネモチに付いては、 宝暦4年(1754年)に 出版された「山城名跡巡行志・第5」の 金札宮の頃に「・・神木尚存ス・・」とあり この木のことと思われる。 このクロガネモチはモチノキ科の常緑高木で 雌雄異株であるが、この木は雌木で 冬期には枝先に見事な赤い実を つけます。 昭和59年京都市指定天然記念物に 指定を受けている.。 |
||||
|
||||
「拾遺都名所図会」には、 文禄年に秀吉公城山に遷し 守護神とした。 慶長の落没によってこの地にうつす。 例祭は、社僧喜運院守る。 とある。 (喜運院は現 喜運寺で 場所は金札宮の北隣に位置します) |
||||
喜運寺の創建 (曹洞宗永平寺派・東雲寺の末寺) 東雲寺の現在地は、伏見区淀新町。 1604年頃 喜運和尚が幕府に喜運寺の 創建を願い出し金札宮の鎮護の条件にて 現在の位置に創建。 金札宮は、 現在の地の北250メートルの地 より移される。 1869年神仏分離令により 金札宮は分離。 |
公岡稲荷大明神 (金札宮境内に祀られている) |
西方寺 金札宮 祠官 金松弥三郎広 (久米村の地侍)が 本願寺の存覚(そんがく)上人に帰依し 出家。 1322年に金札宮内に久米寺を再興。 粂神宮寺と呼ばれ 1355年西方寺と改める。 1604年 伏見が徳川家康の支配下に入り 金札宮が尾張藩邸予定地に 含まれた事により 風呂屋町に移される。 |
||
おみくじ | ||||
明治42年10月に奉納されたおみくじ 鉄製の筒に入った ”おみくじ”をひき記入のある 数字を確認 その数字をこの表に照らし合わせ おみくじの内容を確認する。 この様な”おみくじ”を見た事が 無かったので おもわず ”おみくじ”を引いていてしまいました。 結果は ”吉” よかった!! |
||||
「伏見九郷之図」 |
室町時代に作られた 「伏見九郷之図」に描かれていて本殿の前に拝殿と鳥居が並び、 その左右に清和殿・重陽殿と橘 良基の墓・ 奉幣殿が配されている。 橋を渡ると 神宮寺であった西方寺と久米道場がある。 また 地図に本堂の左には 「白菊石」 (白菊の翁”が姿を変えられたとされる石) が何故か現在御香宮にあります。 ??? (原因は不詳です) 「白菊石」 |
|
天太玉命 (あめのふとだまのみこと)が 人間の姿に変え現れた人が 白菊の翁と 言い伝えられています。 かなり大きい宮であったらしい。 場所は、伏見下板小学校址と伝えられています。 このページを作成にあたり、金札宮 宮司さまに 尽力を頂き、心より感謝。 |
||
金札宮 宮司 : 棚橋 士治 氏 住所 : 京都市伏見区鷹匠町8 電話 : 075−611−9035 金札宮 公式サイト 地図はこちら |
神社・仏閣へ進む | 御香宮へ進む |
|
ご近所さん見聞録 | 歴史・史跡 | 伏見の名水 | お酒屋さん | ギャラリー | ||
料理屋さん | お店屋さん | 歳時記・イベント | ニュース | 散歩道(マップ) |
|