京都伏見 
御陵  紹介
伏見の御陵
  光 明 天皇
崇 光 天皇
後伏見天皇皇玄孫
治仁王墓

大光明寺陵
伏見の御陵 伏見の御陵 伏見の御陵
光 明 天皇
(1322年生〜1380年没)

治 仁 王
(伏見宮家第2代)
崇 光 天皇
(1348年生〜1351年没)

南北朝時代の北朝第2代天皇である。
名を豊仁(ゆたひと)という。

後醍醐天皇の建武の新政に
反旗を翻した
足利尊氏が湊川の戦いで宮方に勝利し、
建武3年(1336年)に京都に入ると
後醍醐天皇は
比叡山延暦寺に逃走する。
後醍醐天皇の代わりに8月15日に
豊仁が
三種の神器の無い状態で即位して
光明天皇となり、
北朝が成立する。
後醍醐天皇は12月21日に吉野に逃れて
南朝を設立をして
南北朝が成立する。

兄の光厳上皇による院政が行われており、
1348年10月に光厳上皇の第1皇子
崇光天皇に譲位した。
上皇に成った後は、1352年に足利氏の
内紛である
観応の擾乱に乗じて
後村上天皇の軍が京都の
足利義詮を
追い都を奪回した際に、
光厳上皇と共々南朝に捕らえらる。
南朝による正平一統が行われると
以後は
南朝方により大和国賀名生
(奈良県五條市)に軟禁される。

1355年に京へ戻り、
以後は落髪して仏道に入ったとされる。

1380年6月24日、崩御(死去)した。

伏見宮家

崇光天皇の第一皇子栄仁
(よしひと)
親王に始まる宮家。

南北朝の争乱の間、
北朝では(1351年)崇光天皇が
退位し、
(1352年)同母弟の後光厳天皇の
即位をみたが、
そののち崇光天皇は持明院統の
皇統の正嫡で
ある皇子栄仁親王に皇位が
伝えられることを望み、
その実現のため室町幕府の協力を
求めた。
しかしこのことは成功せず、
天皇は(1398年)この宿願を
果たさぬまま崩御し、
親王もまた同年、
足利義満の沙汰として落飾を
余儀なくされた。
このように即位の望みを絶たれた
親王は、さらに父天皇の伝領した
持明院統累代の
御領を禁裏の管領に移されたため
すこぶる
窮境に陥ったが、
ついでその一部を回復して家系の
存続をはかり、
ここに伏見宮家成立の基が
開かれることになった。

 親王の没後は王子
治仁王
第二代、
同じく貞成
(さだふさ)親王が
第三代としてその遺跡を相続して
一家の維持に努めたが、
やがて、
正長元年(1428)称光天皇が
崩じて皇嗣がなく、
貞成親王の王子彦仁王すなわち
後花園天皇が迎えられて
即位するに
及んで、
皇統は崇光天皇の子孫に帰するとともに、
宮家の地位も大いに
安泰をみることとなった。



南北朝時代の北朝第3代天皇である。
名を益仁(ますひと)といい、
後に興仁(おきひと)と名乗った


1348年10月27日に光明天皇から
譲位され即位。
光厳上皇が院政を敷いたが、
足利家の内紛から観応の擾乱が起こり、1351年には尊氏が南朝に
帰順することで
正平一統が成立し、
11月7日に
皇太子直仁親王とともに廃立される。

1352年2月、南朝が京都へ侵攻して
足利義詮を一時的に追い、
光厳上皇・光明上皇、直仁親王と共に
南朝の本拠である賀名生へ
拉致され、幽閉された。
北朝では天皇が
南朝方に連れ去られてしまったため、
代わりに光厳院の
第三皇子で
崇光の弟にあたる弥仁親王を
後光厳天皇として即位させた。

南朝勢力が衰微して講和へ傾く
ようになると、1357年に光厳、
直仁とともに帰京する。
崇光は皇子の栄仁(よしひと)
親王(伏見宮初代)の
立太子を望み、
1370年8月に後光厳天皇が
自らの皇子である緒仁親王
(後円融天皇)
を立太子を幕府に申し出ると
皇位継承問題が起こるが、
緒仁への皇位継承が決定する。

1398年1月13日、65歳で崩御(死去)。

大光明寺稜の場所を
知りたい方は、こちらをクリック



寺田屋址へ進む 伏見桃山稜へ進む

ご近所さん見聞録 神様、仏様 伏見の名水 お酒屋さん ギャラリー
料理屋さん お店屋さん 歳時記・イベント ニュース 散歩道(マップ)