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京都伏見 | ||||||||||||||||||||
御陵 紹介 |
光 明 天皇 崇 光 天皇 後伏見天皇皇玄孫 治仁王墓 大光明寺陵 |
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光 明 天皇 (1322年生〜1380年没) |
治 仁 王 (伏見宮家第2代) |
崇 光 天皇 (1348年生〜1351年没) |
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南北朝時代の北朝第2代天皇である。 兄の光厳上皇による院政が行われており、 1355年に京へ戻り、 |
伏見宮家 崇光天皇の第一皇子栄仁 (よしひと) 親王に始まる宮家。 南北朝の争乱の間、 北朝では(1351年)崇光天皇が 退位し、 (1352年)同母弟の後光厳天皇の 即位をみたが、 そののち崇光天皇は持明院統の 皇統の正嫡で ある皇子栄仁親王に皇位が 伝えられることを望み、 その実現のため室町幕府の協力を 求めた。 しかしこのことは成功せず、 天皇は(1398年)この宿願を 果たさぬまま崩御し、 親王もまた同年、 足利義満の沙汰として落飾を 余儀なくされた。 このように即位の望みを絶たれた 親王は、さらに父天皇の伝領した 持明院統累代の 御領を禁裏の管領に移されたため すこぶる 窮境に陥ったが、 ついでその一部を回復して家系の 存続をはかり、 ここに伏見宮家成立の基が 開かれることになった。 親王の没後は王子治仁王が 第二代、 同じく貞成 (さだふさ)親王が 第三代としてその遺跡を相続して 一家の維持に努めたが、 やがて、 正長元年(1428)称光天皇が 崩じて皇嗣がなく、 貞成親王の王子彦仁王すなわち 後花園天皇が迎えられて 即位するに 及んで、 皇統は崇光天皇の子孫に帰するとともに、 宮家の地位も大いに 安泰をみることとなった。 |
南北朝時代の北朝第3代天皇である。 名を益仁(ますひと)といい、 後に興仁(おきひと)と名乗った。 1348年10月27日に光明天皇から 1352年2月、南朝が京都へ侵攻して 南朝勢力が衰微して講和へ傾く 1398年1月13日、65歳で崩御(死去)。 |
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